現代的「踏み絵」として「自己責任」論(1)
(小改訂行いました04/07/08)
最近、自己責任という言葉がよく聞かれる。そのことに関して語った事はほとんどない。
理由は、実に個人的なものだ。
自宅で老いた親がいて、病状が悪化している。人間の時間は有限であり、自分の家族の晩ご飯の支度や、家事が当然先だ。病気の母親を支え助けることが仕事よりも優先なのは、人間として当然である。
大体、同じ文化・時代・教育などを等しくしているなら、人間の考える事は結局同じ結論に辿り着くはずだ。時間がないのにも関わらずインターネットでわざわざ個人的意見を述べるのは、たまたま自分と同じ意見を見つけることができなかったからだ。多分あるはずである。
世の中には、自分と同じ意見の人がたくさんいる。
時間もないのに、わざわざ取り立てて言うべきものでもない。
そう考えていたのだが、ふと違う気がしてきた。
数の論理というものだ。
人間は数字に弱い。実際に厳密な調査をすれば、多数派の意見が違っていても、(政治的・経済的・宗教的な理由等で数字を操作をしている可能性が全くないわけじゃないのに)数字で明示されると、「本当はそれが
正しかったのか。自分の意見が偏っていたのか」と人は思いがちである。
だから、ネット右翼が一生懸命プロパガンダするのは、当然情報操作が目的だ。
橋田さん達が本当に凄いところは、家族に遺言に当たる言葉を当然のように残している。それに従って、淡々と奥さんと息子さんが語る言葉は、まさに値千金だ。
どんな言葉よりも説得力がある。
頭が下がる。
拉致被害者の家族やイラクで人質になってしまった5人の家族が感情的な発言を時々するのを見かける。
彼らを救出するために、藁をもすがる気持ちで意見を言い、それを否定されたら、
「助けてくれる気がないのではないか」と疑うのは普通、誰だってそうだろう。
その気持ちを理解した上で、「まあ仕方ないじゃないか」と思い、その上で何か助けになる事を考えるのが、人の道というものだ。(私も年が年だから、古めかしい言い方で説教臭くなるが(笑))
ところが、彼らを非難する人々には、政治家を含め俗に言う分別盛りの人達が多数いる。私など「いい年をして」と思ってしまう。
だから、逆に、これらの件で、ある人がどのような見解を持つかはその人がどんな人間であるかを証明する、現代の「踏み絵」になりえるかも知れない。
色んな意見があって当然であり、「自分はこう考える」という分には、憲法が保障した「表現の自由」なのだから、自己責任で行くべきだから云々という言い方の先に多数の結論はあるがそれはそれでいいだろう。
何よりも問題なのは、その表現方法である。
目的は、手段によって決して正当化され得ない。
古典的な表現で言えば、
「なせばなる なさねばならぬ 何事も
ならぬは人の なさぬなりけり」(上杉鷹山)だ。
最初の部分は有名だが、下の句はあまり言われない。
「やってはならないこととは 大抵人がしないことだ」
と言っている(まあ、多少解釈に異論はあろうが)。
人道上あるいは道徳的に問題があることは、人間が普通しないことに多い。改善や改革も今まで「人がしないこと」に含まれようが、それが正しいと納得できるなら、改めないほうがおかしい。
「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」(あやまてばすなわちあらたむるにはばかることなかれ)とも言う。
(私も暗記しているほど覚えてないので、参考サイト 「論語に学ぶ会」をご参照を。普段言い慣れているのは「改めるに如くはなし」だが、元ネタは多分上記でしょう)。
いかに立派な事を言っていても、方法論が間違っているなら、誰も説得できないし、目的に手段を選ばない人間や集団が人類に幸福をもたらす事はあり得ない。
「そんな事はわかっている」と言いながら、人は得てして、間違った方法で物事を行ってしまうものだ。
「そんな事はない」という人がいたなら、そんな人の側には行かないように。ろくな目に遭いません。
充分に自省しない人は、必ず過ちを繰り返す。
人間は自己弁護がどうしても好きだ。
やらない事にはたくさんの理由がつけられるし、無謀な方法をした弁解には事欠かない。
以下は(2)に(長すぎるのでね)


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