【帝国としての米】校内暴力事件を振り返って-チキンホークと「自己責任」論
私も昔は、「なんで、自分はアメリカに生まれなかったんだろう」等と、無邪気で世間知らずな事を考えていた小学生だった。
もちろん、70年代の教育など、その程度に偏向していたものである。
小学生の私は、イジメで困っていると同級生が泣きついて来る度に、いじめっ子を殴り倒す算段をつけていた。
大抵、休み時間に殴り合いになる。
イジメの現場を抑えて、威圧するからだ。
「昨日の○時間目の休み時間にも、○○ちゃんをイジメただろう。止めねえなら、ただじゃおかねえ」と、脅しを掛ける。
「わかった」と言えば、私が楽なので、それで終わりだ。
「うるせえ」と相手が言った時点で、殴り合い。
休み時間に喧嘩をするのだから、学級会で必ず吊し上げに遭う。
私が吊し上げられるだけではなく、いじめっ子に対しても、クラス全体で圧力を掛けられる。だから、「吊し上げ上等」だった。
私にとっての試練は、いじめっ子に殴られることでも、学級会で吊し上げに遭うことでも、担任に説教される事でもなかった。
放課後、自宅に帰ることだった。
実は、父が他校の教師だった。
しかも、担任は元同僚。
だから、初めから家に帰れば何が起こるか、私はよく知っていた。
それでも、いじめっ子を殴りに行っていた私は、ブッシュ大統領より多分はるかにアホである。
玄関を開けると、必ず父が帰宅していて、腕組みで待っている。
担任は必ず父に報告するので、時には早退までして自宅待機していたらしい。
開口一番。
「歯を食いしばれ!」だ。
殴られると、なぜ、人は言ってしまうのだろう。
「アタシは悪くない!」と。
「まだ言うかぁ!」の台詞と共に、二発目が飛ぶ。
つい、同じ台詞を繰り返してしまう。
「アタシは悪くない!」
「まだ言うかぁ!」
往復ビンタが五、六回飛ぶ頃には、母が父の膝に抱きついて、泣きながら言っている。
「この子は、殴られると殴られるほど、意地を張るんです。
だから、殴るのだけは、止めて下さい」
ちなみに、殴られた娘は、涙一つ流していない。
その上、継子だったりして(殴ってるほうが、実の親)。
それからの問答は、「なぜ、同級生を殴ったのか」である。
「イジメをやっていたから。
担任には以前談判しても無視されたし、お父さんも先生に何も言ってくれなかったじゃないか。
だから、殴ってわからせるしかないんだ。
イジメをやるような奴は、親に殴られた経験もないような甘ったれた根性の奴らなんだ。
だから、あいつらは殴られて、将来いい経験になるに決まっている」
こんな、素晴らしい屁理屈(口答え)を小学五年が必ず言うわけだ。
「それだけ、口が達者なら、なぜ、口で言わん!」と、
「だからといって、殴ってもいいのか」
「暴力をふるうことが正しいのか?!」とばかり、父は言うだけである。
それを、娘は屁理屈で答える。
「お父さんは、殴ってるじゃないか」
「俺はお前の親だから、殴っていいんだ!」
最後に私が捨て台詞を吐くまで、このような問答が最低一時間繰り返される。
「わかったよ。殴ったアタシ私が悪かったよっ!」
これが捨て台詞なのは、父がしつこい「暴力を振るっていいのか」と言い続けるので面倒になっただけである。
当然、納得はしていないので、同じ事がまた繰り返される。
同級生は「○○ちゃんを助けてくれたんだから、私も助けて」と来る...。
確実に、親父に殴られるのはわかっている。
同級生なんぞ、なんぼのものだ。
所詮、小学生の腕力だ。
どっちにしろ、家に帰ったら殴られるのだから、勝たなきゃ損。
ここで、気合いを見せておかないと、またイジメを再開する。
脅しの意味も込めて、気合い充分で殴りに行く。
殴るのを止めたのは、いじめっ子の背景はそれほど簡単なものとは限らないと知ったからだ。
六年の終わりに殴り合いの喧嘩になった同級生が、なぜ、イジメをしたのかを悟った時、親父の言うとおり、「殴っても何も解決にならない」と悟ったからだ。
殴ってイジメを止めさせようとして、イジメが減った事は、一切ない。
増えてもいないと思うが、減ることは決してなかった。
背景に、担任の贔屓があったと思う。
懲りない校内暴力娘がいた、このクラスは、被害者側に立つ者と加害者側に立つ者で二分された。
イジメ側を擁護した理由で、級長がリコールされたり、実に素晴らしいクラスであった。
このクラスから、後に東北大卒が三人出ている。
一人はリコールの後に級長になりクラスの紛糾を抑えた人物で、後の二人は比較的裕福で、イジメの常習犯だった。
この二人の事を、いつか殴っておこうと、ずっと私は狙っていた。
「親に甘やかされている二人は、成績も良いだけに、このままじゃ絶対ろくな人間にならない。殴られて、人の痛みを覚えさせておくほうが、本人のためだ」
などと、小学生の私は本気で考えていた。
小学校の低学年で、親の命日に「人は死んだら、どこに行くのですか」と和尚に尋ねるような人生を歩んでいると、普通の小学生のままではいられない。
人当たりがよく、職場でもどこでも評判が良かった父は、自分の子ども達に対しては、実に厳しかった。未だに、兄弟は父の悪口しか言わない。
もっとも、兄弟のうち、殴られていたのはなぜか、いつも私だけだった。
物心ついた頃には、常に「こいつが悪い」と決めつけられていたのは、なぜだろう?
世間の評判では「似てない親子」だが、なぜか親戚は、父と私をそっくりだと言う。
こんな、小学生時代を送っていた粗暴な私は、よく「自分はアメリカ人だったら良かったなあ」等と思っていた。
高校で世界史の授業を取った後、相当見解が変わった。
十字軍の話には、深い憤りを感じたものだ。
大学の頃に、ロスアラモス市に関する報道があった。
その頃にはもう、「アメリカ人でなくて良かった」と思うようになっていた。
「日本人で良かった」と思ったわけでもない。
日本人であるのは単なる宿命である。世界中のあらゆる人がそうであるように。
私の感情は、単純ではない。
曖昧な国の人間であり、その曖昧さを嫌っている。
少し、日本は減らしたほうがいいと思う。
だが、曖昧であったほうが良いことを曖昧にせず、勝手に是非を決めつけては物事を複雑にし、殺し合いに導いている人々が、世界中にたくさんいる事もよくわかっている。
「アメリカ人がとにかく嫌いだ」等と、「世の中、善と悪しかなく、白と黒しかない」みたいな、そんな単純な感情を、日本人である私が抱くわけがない。
善と悪の間には、必要悪もある。
やっぱり悪い事なのに、自己弁護する主流派が素直に非を認めずに「善」だと世間を言いくるめようとする、実に怪しげな「善」もある。
世の中、そんなに簡単なわけがないのに、簡単に考える人々は実に多い。
私は日本人なので、絶対アダムとイブの子であるはずがない。
「世界中の人間はアダムとイブの子である」とするのは、単に、ユダヤ世界の民間信仰のようなものだ。世界中の人間が、自民族の先祖の、庶子の子孫に当たるとしたがった、古代ユダヤ人の暗い願望でしかない。
だから、日本人の私は、多分イザナギとイザナミの子孫じゃないのかな(古事記は判りにくい)。
韓国人は多分、檀君の子孫だし、中国人はフッキとジョカの子孫だ。
となると、アングロサクソンは、日本人と中国人と韓国人の事を、「白人なら好きなように殺していい、人間でない者」と考えるのだろうか?
(未だに、一部は確かにそういう人がいるので、あえて強調する。本当に、恥ずかしい人々だ。)
アメリカの嫌いな処はたくさんあるし、まさに「人類の恥部」としか言えない人々が多数いる。
同時に、心から尊敬に値する人々が多数いる事も、ちゃんと知っている。
日本人の大半がアメリカの悪口を言わないから、私は今、アメリカの悪口を言っている。
アメリカの悪口を言う日本人が大半になったなら、私はアメリカの良き部分を強調するだろう。
定見がないのではなく、私の定見は、常に私なりの「中庸」であり、バランスの問題だ。
ちなみに、なんでこんな事を書いたのか、最後まで読まないとわからない人もいるかもしれない。子どもの頃に意地っ張りで人の言うことを聞く習慣がさっぱりなかった私は、注意力散漫で詰めの甘い。
暗いニュースリンクの他人に戦争を奨励する人々を読んだのは今日だ。
チキンホークって、凄い面子だな~。
だから、ボンボンってなぁ、駄目なんだよ~。
最後まで読んでもわからない人も多かろうが、それは私の文章が単に酷いからだ。
私の「イジメとの闘い」がどれだけ馬鹿馬鹿しいものか、小学生でも悟れると言うことと、ブッシュの「テロとの戦い」のバカさ加減と比較してみるのも、多少は役に立つと思ったからだ。
人は、責められると必ず居直るものだ。
だから、「テロとの戦いであり、自分達は絶対正義である」と言ってアメリカとイスラエルがパレスチナやイラクを叩いている限り、テロの種は、浜の真砂のように尽きるわけがない。
日々、新しい恨みと憎しみが、イラクで、パレスチナで、アフガニスタンで生まれているからだ。
それは、石川五右衛門の名句のように、(「自己責任」論が好きな人以外の)日本人の常識だ。
ブッシュのやり方、あるいは今のイスラエルのやり方をこのまま追求していくと、イギリス・イスラエル・アメリカの三カ国で、世界中のイスラム教徒を最後の一人まで殺害して根絶やしにしてしまわなければ、彼らの言う「テロとの戦い」は終わらない。
この三カ国の一部の人々が、それを真剣に考えているらしいから、馬鹿馬鹿しいのだ。
そういう状況をわかった上でアルカイダも「目には目を」「歯には歯を」で行動しているのだから、彼らは、当然、米国軍需産業の手先でしかない。アラファトとサドル師には多少同情心が沸いても、アルカイダは明らかに死の商人の手先に過ぎない。
もしもの話だ。
自分がアメリカ人でブッシュ大統領やラムズフェルド長官が同級生だったら、殴りに行っていたか?
やはり、白人でないと殴りに行かないだろう。
アメリカでの有色人種の命はとても安いので、選民思想に染まった白人に恨みを買ったら、家族や友人が確実に闇で殺されそうだから。
しかし、人の痛みを知らない人というものは、こんな風に他人を戦場にやって、己の権威を誇るような人間になるわけだ。
自分が家族を失った悲しみを想像できれば、香田さんの事を「死んで当然」とか「救出に税金使うな」とか言うような日本人は、このチキンホークの人々と一脈通じるものだ。
「自己責任」論を言い立てる人にも、家族を失った経験ぐらいある人もいるだろうが、本気で家族の死を悼んだ事がない人かもしれない。
老衰や病気で親が死ぬのは仕方ないことで、怒りや憤りを感じずに済む場合もあるだろうから。他人が家族の死を悲しんでいるのがわかっていても、故意に傷つけるような薄情者なら、家族が死んでも本気で悼めるような神経がないだろうし。
最近さすがに、幼い頃に亡くなった親の事を、亡くなった事で自分に多くの面でたくさん考える機会を与えてくれたことを、本当に感謝すべきだと思うようになった。
(殴られる理由があったのだろうが)理不尽に私だけすぐぶん殴っていた親父や、「飯場で(元ヤンキーが多い)若い衆に号令が掛けられるようでなければ、人間失格」と考えてるような、「ハマコウ」似の性格の祖母にも、感謝すべきなのだろう。
つまり、チキンホークな人々よりは、真っ当な人間観と人生観をもてたからだ。
不幸事は、多少は人生を振り返り、よりよく生きるために役立つ事がある。
生かせなければ、死んだ人は本物の死に損である。
どう生かすかを決めるのは、世間の人々ではないのだけど。
無駄な死は決してないが、死を無駄にすることは実によくある事だ。
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