「メメント・モリ」藤原新也著 - 死を見つめる時、生が見える -
個人によって、得る情報はどうしても偏る。
注意して増やすように気をつけているが、人文系の情報が元々乏しい。
ブログのコメントのおかげで、一冊の本と出会えた。
浅学である自覚はあるが、人に教えてもらえるのは助かるもので、実に有り難い。
藤原新也氏が「メメント・モリ」を出版されたのは1983年だが、今まで氏の名前も聞いた事がなかった。
写真集というべきか、詩文集というべきか。
コメントに引用された文章も素晴らしいが、こんな言葉が印象に残った。
花や果物や野菜や犬や豚やニンゲンなどの腐ってゆく臭いが、
なぜくさいかというと、
それは生前に持っていた八万四千の煩悩のひとつひとつが、
臭いの粒子となって飛び散るからです。
その臭いは、わたしたちにとって本当はなじみ深く、愛しいもの。
清潔を煩く言う時代になり、首を捻らずにいられない現象が起きている。
汚いといって、子どもに土いじりをさせない母親が増えている。
昔、報道で奇妙な母親の例を聞いたが、不安になって医療機関に問い合わせた理由が「赤ちゃんの尿が青くないから、おかしい」では、かなり頭が痛い。
この母親は、兄弟や近所の子の面倒など見た事もないのだろう。
土いじりをした経験がない子ども。
ミミズを怯える子ども。
困ったものだ。
私もミミズは好きではない。生理的嫌悪感がある。
うっかり殺さないために動かすのは大変だ。途中で誤ってスコップで切って殺してしまう事もある。
素手で持てばいいのだが、あまりミミズと毛虫は触りたくない。
うっかり殺してしまうと、実に嫌な気分だ。
そう言いつつ、ヨトウガの幼虫を毎年捕っては、「成仏してくれ」と言いながら、枝葉と一緒に燃えるゴミの袋へ入れてしまう。
滅多に遭わないが、飛んできたゴキブリもスリッパで潰す。
シロアリや羽アリを見かけると、目の色を変えて抹殺にかかってしまう。
害虫は、自分だけでなく周囲も嫌がるから仕方ないことにするが、さすがにアリの巣コロリは使わない。平気だ。
だが、ミミズは益虫も益虫、ミミズが多ければ肥料も要らない。
実に、素晴らしい生き物だ。
でも、触りたくない。
踏んでしまう前に、地中へお戻り頂く事にしている。
当然の如く、殺生はよくないと教わって育ったわけだが、私も相当矛盾だらけだ。
躊躇いもなく殺すよりは、躊躇する分、多少ましかもしれない。
幼い頃、近所の造成地に、沼があった。
その沼から流れ出る小川があり、子ども達は夏場、群がったものだ。
水車を作って川辺においた子もいた。おままごとの女の子もいた。
棒で地面を掘り、新しい水路を開くのが好きだった。
時々、ミミズみたいな生き物が流れていたが、あれはイトミミズだったのか、アカボウフラだったのか。
伸び縮みしながら流れてくるのだ。触りたくなかったので、避けていた。
冬場は、その造成地の崖がスノーボート乗り場として、大人気だった。五メートル以上高さがあったか。
当然、大人はいなかったが、怪我人の話を聞いた事もない。
大抵、小学校高学年か中学生の男の子がいて、いざとなると場を仕切っていた。
「小さい子一人だけで乗るな(重さが足りないとボート自体が回転して危険だから)」などと、時折、命令が飛ぶ。
自然発生的なので、その年長の男の子達がどこの家の子だったのかも、未だに知らない。
そこから南に下ると、埋め立て地があり、そこでよく、男の子達が遊んでいた。
たまたま捜し物で近くへ行った時、「よそ者のお前に、やる王冠はない!」といきなり怒鳴られた事がある。
王冠を集めてバッジを作ったり、掘り出し物のおもちゃを拾うのだという。
たまに、超合金のロボットも出るんだと威張っていた。
近所に公園などない。
空き地で、いつも野球をやっていた。
小さい子は幼稚園児でバットに当てられないからテニスラケットを使っていた。
年嵩の面倒見の良かった中学生達は、実はほとんどが番長グループで、有名な不良だったそうだ。だが、犯罪者になったという話は聞いた事もない。
藤原新也氏の写真は、昔は日本にも有り触れていた風景ばかりだ。
今時の感覚からすると、生臭く、泥臭い。
人によっては、眼を背ける写真もあるだろう。
だが、不思議な暖かさが漂う。
人はよく、人間も所詮、動物だという事を忘れやすい。
とても高尚なものと考えるのもいいが、自分も生き物だと忘れてしまっては、大切なものを見失ってしまう。
例えば、怒りっぽい女性は往々にして、ホルモンのバランスが崩れているらしい。そのバランスが正常になると、いきなり怒らなくなる場合もある。
ちなみに、月経前緊張症候群の私が、偶然腹痛を抑える治療のおかげで経験したことだ。
もちろん「当社比」のようなものだが、随分穏和になったようだ。
男性だとて、人生で失敗する時には、よく「魔が差した」とか、生臭いスケベ心で身を滅ぼしている事が多い。
所詮、周囲の人も己も、煩悩だらけの、その程度の生き物であると認識した上で、より真っ当な人間になろうと努力するのが正しいはずだ。
あまり、人間を偉いものだと思いすぎないほうがいい。
己の煩悩が肥大化するのを避けるためである。
つまらない理由で、他の生物や他人を蔑んだりしてはならない。
薄情さ故に蔑まれるような、情けない人間に、己が成り下がらないためだ。
人間の煩悩が肥大化した結果、環境を盛大に破壊してしまい、大変な目に遭う事が多い。
人間の知恵などしれたものなのに、それを自然より立派なものと官僚が錯覚した結果、無意味な計画で、春先の日本にスギ花粉アレルギーに苦しむ人々を多数作り出してしまったように、物事は自然のほうがいい事が多い。
なぜなら、数百年、千年単位で安全や効果が立証されているから、そこに存在する事が多いからだ。
人間の科学が追いつかず、原因や理由がわからない事は意外に多い。
健康に良いと言われ続けてきた大豆や納豆が、なぜ健康に良いのか、科学的にわかったのは、ごく最近のことであるようにだ。
科学もその程度のもの、万能と錯覚したり、過大視してはならない。
死を見つめると、生がよく見えてくる。
ただ生死を見るだけでは足りない。
「良い死に方とは何か」を考えなければ、「良い生き方」は見えてこない。
死のリアリティがないからこそ、生の大切さや、人情など、物質的価値だけで割り切れない何かが多数存在する事を理解し損なうのだ。
昔は、死を多く見る事ができたが、今の時代は「穢れ」として子どもに見せないようにばかりしている。
よくない事だ。
死を見る機会が少ない子どもは、己を人間よりもっと高尚な生き物と錯覚しやすいのではないか。
錯覚したなら、他者の命を簡単に奪える、人間以下の代物に成り下がりやすいだろう。
人間、謙虚さは簡単に忘れてしまう。
こうやって文章を書いているだけで、自分だけが批判から外れているような錯覚に一瞬陥る。
「パソコンの活字は、万能感をもたらしやすいので危険さも感じてほしい」という心理学者の言葉を思い出しながら、「難しい世の中になったものだ」としみじみ思う。
東京の従弟達はボーイスカウトに入っていた。
従弟は「野糞ができないと、一人前のボーイスカウトにはなれない」と言っていた。
キャンプ地で自分達で穴を掘ってトイレを作るそうだ。
今でも、そうなのだろうか。
軍隊に縁が深いが、ボーイスカウトにも良い点は多い。
子どもの時分は、私もさすがに野糞をした。
当時、お気に入りの遊びは、「探検」だった。
行き場所も決まっていない。
帰り道も知らない。
どの道がどの道と通じているのか、勝手に彷徨って調べているのだから。
踏み分け道を歩いていって、知っている車道に出た時は、実に爽快な気分になれた。
途中で人家まで戻れない事もある。
山道を歩いて、車道で行けば五キロ近いところまで行ってしまい、そのまま引き返して歩いて帰った事もある。
今を思うと、随分平和な時代だったのだろう。
同じことをそのまま出来ないとしても、別の方法でもっと子ども達に自然に触れさせ、普通に生死を見せることは出来る筈だ。
それが出来ないのでは、今の時代、親としての責任は果たせていないかもしれない。
我田引水に長々と屁理屈を捏ねる、こんな文章を読むよりも、自分の眼で藤原氏の本を見て、周囲にある自然や古い文化を見つめ直してみることのほうが当然、遙かに大切である。
「メメント・モリ」藤原新也著 情報センター出版局
藤原新也氏のオフィシャルサイト


りーとさん、TR&コメント、どうもありがとうございます。先ほどから、りーとさんのBlogにざっと眼を通してみて、その関心領域の類似に驚いています。
お気に入りにも登録しました。
もしよろしければ、もっと読み込んでから僕の日記とBlogで紹介させていただきたく思っています。
僕はあのBlogの他に、HPをもっているので、そのURLもここに載せておきますね。
お気軽に遊びに寄ってやってください。
とくに“Links”と“Friends”がお薦めです。
“EL MUNDO ALUCINANTE”(日本語で“めくるめく世界”)
http://members.goo.ne.jp/home/diaspola
Posted by: dia | December 05, 2004 at 11:43 PM
TBありがとうございます。
メメントモリの初版は今でも書棚にある。
時折開いてみるたびに発見がありますね。
Posted by: MAO | December 11, 2004 at 05:33 PM